天女山永正禅林泰陽院孝顕寺は、曹洞宗に属する。
永正12年(1515)に結城家第十五代藩主結城政朝公が栃木市の大中寺から獨放曇聚禅師を開山に迎え、結城城西側の地に玉岡山永正寺と称し創建された。
第十七代結城晴朝公が弁天島(立町)の地を寄進し、慶長4年(1599)に第十八代秀康公(徳川家康公二男)に依って現在の地に移され、孝顕寺と改称した。
この時徳川幕府より御朱印五十石を賜った。
七堂伽藍完成後、慶長6年8月、秀康公が福井越前への移封により、時の住職を同行し福井にも孝顕寺を建立。
後世、群馬前橋を領地として同じく孝顕寺を建立したので日本三孝顕寺と呼称し、当寺がその本寺となった。
結城藩主・水野家の菩提寺として宗門格地に昇進し、関東有数の名刹と目され、修学弁道の修行僧が常に百余人を数えて明治に至る。
明治維新の廃藩置県により、幕府朱印も上地後、3万坪の境内は3600坪と激減した。
しかし、多くの檀信徒と寺録とに依って寺格を保有し、護持してきた。
また、飛地境内には一言薬師如来(目の病気にご利益がある仏様)が祀られている。
孝顕寺は、直末寺院及び門葉百八十余寺を擁して、開山以来三十九世の董するに至り、仏祖単伝の正法の教えは脈々と受け継がれてきた。
平成27年3月、当寺三十八世彬道恵文大和尚(平成29年7月遷化)発願による当寺開創五百年記念事業の本堂(1803年建立)大改修が始まり、先代の遺志を継いだ三十九世恵真住職が檀信徒と共に本堂大改修に尽力し、令和2年5月に無事完成となった。
令和3年5月には、本堂落慶法要並びに三十九世晋山結制を新型コロナウイルス感染拡大する不安定な状況下ではあったが、茨城県内寺院中心で、檀信徒は総代・世話人のみ参列にて、規模縮小で修行された。
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伽藍